1限目:平成とYGUと箱根
今月7日、とある大学の陸上部の新体制が発表された。
大学の名は山梨学院大学。
箱根駅伝を見たことがある者ならば、その名を知らない者はまずいないだろう。
新たに駅伝監督に就任したのは飯島理彰。
山梨学院大学が箱根駅伝で、初の総合優勝を果たした際のメンバーだ。
そして、駅伝監督の座を退き、陸上部監督としてバックアップに回るのは、上田誠仁。
山梨学院大学駅伝チームの礎を一から作り上げ、出雲駅伝優勝6回、箱根駅伝優勝3回。各界で活躍する数多くの教え子を育て上げた稀代の名将である。
上田の監督としての歴史は、そのまま山梨学院大学駅伝チームの歴史と言える。
順天堂大学時代の恩師であり、これまた不世出の名将である澤木啓祐に推薦され、1985年に監督に就任した上田は、翌年の箱根駅伝予選会を見事に突破。
1987年の63回大会、記念すべき初出場を果たす。
この時は最下位に終わったものの、無名の地方大学の健闘は、ちょうどこの年から始まった日本テレビの箱根駅伝中継にも映し出されることとなった。
ちなみに、この大会で山梨学院大学の10区を務め、最終走者となった高橋真は、のちに『いいひと。』『最終兵器彼女』などのヒット作を生み出す漫画家となる。
その後も順調にチームの強化を進めた上田は、2年後の65回大会(1989年)で、革命的な選手起用を行う。
J.オツオリ、K.イセナの両外国人留学生の起用である。
特に2区を任されたオツオリは7人抜きで首位に立ち、ぶっちぎりの区間賞を獲得。
見る者に圧倒的なインパクトを与えると同時に、チームの初のシード権確保(総合7位)に大きく貢献した。
しかし、その衝撃の反動は大きかった。
チームには心無い批判の声が浴びせられることになる。
元号が平成に変わる、わずか5日前のことだった。
箱根駅伝とは、多分にナショナルな要素を含んだ競技である。
まず前提として、駅伝というスポーツ自体が、日本発祥の競技であり、ほぼ国内限定で盛り上がりを見せているスポーツだ。
そして、「学生たち」「絆」「チーム」といった清廉で集団主義的な表象。
お正月に東京から箱根へと向かい、帰ってくるというハレとケの往来を体現したかのような開催時間とコース。
それら全てが日本人の琴線に触れるからこそ、箱根駅伝はここまでの国民的イベントになったのだと私は考える。
しかし、翻って言えば、そこに外国人留学生が加わった時、ナショナリズムの負の側面が顔を出すことは、火を見るよりも明らかなのである。
事実、大学には「“害人”を使うな」といった、目を覆いたくなるような誹謗の手紙が届いた。(※1)
だが、彼らは負けなかった。
上田の言によれば、オツオリは偏見を抱いて見られるのも理解した上で日本に来ていたという。(※2)
その覚悟と走りは、強烈な逆風にも負けない推進力となり、チームをより強くしていった。
そして、1992年の68回大会。その時はやってくる。
1区の5位から、4年生になったオツオリとイセナが2区3区を走り首位に立つ。
1年次に8区区間最下位だったイセナは、3区で区間新記録をマークした。
その後チームは一度も首位を譲ることなく、アンカーの主将、野溝幸弘が悲願の初優勝のゴールテープを切った。
山梨学院大学が名実ともに、箱根駅伝を代表する大学となった瞬間である。
箱根初優勝を果たした年、大学には新たな留学生として、 S.マヤカが入学した。
現在の桜美林大学駅伝監督である、真也加ステファン、その人である。
マヤカは期待に違わぬ活躍で、一年生から2区で区間賞を獲得する。
しかし、大学は2年連続の総合優勝を逃した。
立ちはだかったのは、早稲田大学。
伝説のランナー、瀬古利彦がコーチを務め、高校時代から名の知れた選手が集った屈指のエリート集団であった。
「三羽烏」と呼ばれた櫛部静二、花田勝彦、武井隆次は、それぞれ1区、4区、7区で区間新記録をマーク。
2区では1年生の渡辺康幸が、マヤカに負けず劣らずの走りを見せ、首位の座を堅持した。
2校のライバル対決は凄まじかった。
1992年度〜1994年度、出雲は山梨学院、全日本は早稲田が取り、箱根で雌雄を決するという完全な2強時代が到来。
1994年の70回大会では、20チーム中16チームを復路一斉スタートにした。
わずか3年間で、区間記録を2校合わせて11回も出した。
中でも、マヤカと渡辺のエース対決は脚光を浴びた。71回大会(1995年)では先着したマヤカが12年ぶりに2区の区間記録を出せば、後から襷をを繋いだ渡辺がそのマヤカの記録を上回り、前人未到の1時間6分台をマークするなど、異次元の争いを繰り広げた。
このライバル対決は「エリートvs雑草」「日本人vs留学生」「都会vs地方」といった数々の対立構造を生み、多くの人を箱根駅伝に惹きつけた。
この頃、箱根駅伝中継の視聴率は急速な伸びを見せ、現在の水準にまで到達。
スポーツライターの生島淳は、この対決を『箱根の華』と表現している。(※3)
山梨学院大学はこの激戦を制し、見事70回大会〜71回大会で連覇を達成する。
快挙の裏には、マヤカ以外の選手たちの活躍がなくてはならなかった。
前述の飯島に加え、非公認ながらハーフマラソンで60分台を叩き出した井幡政等、在学中に世界陸上のマラソン代表となった中村祐二、現在MHPSマラソン部の監督を務める黒木純ら、数多くの選手たちが、留学生を追いかけ、学生界を代表するランナーになっていた。
特に、70回大会で10区を任された尾方剛は、その後2005年のヘルシンキ世界陸上でマラソンの銅メダルを獲得するまでに成長した。
山梨学院大学は、平成の箱根駅伝に大きな2つのインパクトを与えた。
①留学生が躍動する場が生まれた。
②早稲田大学との対決により、大会がよりメジャーな存在になった。
平成初期にこれらの出来事が起こらなければ、平成の箱根駅伝史はまた違ったものになっただろう。
そして、現在の箱根駅伝も、全く別の姿であったに違いない。
山梨学院大学は、71回大会の優勝後、箱根駅伝の総合優勝からは遠ざかる。
大会がメジャーな存在になったことで、宣伝効果を狙った大学がこぞって本格的な強化を開始。
群雄割拠の時代となり、箱根を制する厳しさはより増した。
さらに、平成後期にはいわゆるブランド校と呼ばれる大学までが、その知名度と資金力を生かし、スカウトや設備投資に本腰を入れ始める。
近年はシード権獲得も困難な状態となった。
それでも、「山梨学院」のユニフォームは平成の箱根路を駆け抜け続けた。
チームは監督の上田とともに33年連続で出場。
平成の箱根駅伝を皆勤したのは、日体大、駒澤大、早稲田大と山梨学院大の4校だけ。
既に新興校の枠を超え、箱根駅伝の伝統校となりつつある。
また、その中で幾多の名ランナー、個性派ランナーも生んできた。
箱根2区区間記録を持つ史上最強の留学生M.J.モグス、世界陸上や五輪のマラソン代表となった大崎悟史、今年まで箱根最古の区間記録(8区)を持っていた古田哲弘、2003年日本インカレ2冠の橋ノ口滝一、監督の息子であり、主将を務めた上田健太…。
特に、MHPSに進んだ井上大仁は昨年のアジア大会マラソンで金メダルを獲得し、2020年東京五輪のマラソン代表の有力候補に挙げられるなど、今も目覚ましい活躍を続けている。
また、井幡(愛三工業)、黒木 (MHPS)や、高見澤勝(佐久長聖高校)など、大学の出身者には近年勢いのあるチームの指揮をとる指導者も数多い。
そして、箱根を走る留学生の環境も、平成を通して確実に変わった。
今年の箱根駅伝では4校が留学生を起用。
D.ニャイロが欠場した山梨学院大学を除いても、この数字なのだから、もはや留学生の起用は箱根駅伝の「日常」となっている。
今年箱根を走った留学生の1人、拓殖大学のW.デレセは、初の留学生主将を務めた。
大会中の様子は、テレビ東京のバラエティ番組『YOUは何しに日本へ?』で今月11日に放映されるそうだ。
それら全てが、昭和の箱根駅伝では考えられなかったことである。
上田、オツオリ、イセナ、そして山梨学院大学が切り開いた道が、後続への大きな財産に変わっているのだ。
ここまで多くの影響を与えているからこそ、厳しい局面をなんとか乗り越えてほしいという思いが強くなる。
山梨学院大学は、今年の箱根駅伝で21位に沈んでしまったのだ。
これは、過去順位がついた中での最低順位である。
また、ニャイロ、永戸聖といった主力選手が卒業。
チームは初出場以来最大の出場危機にあるといっていいだろう。
そんな中で生まれた飯島駅伝監督による新体制。
来年度に向けてどんなチームを作ってくれるのだろうか。
来るべき次の元号でも、箱根の舞台でYGUのロゴが輝く時を強く望みたい。
注釈
※1-参考文献①
※2-参考文献①
※3-参考文献② 、160頁。
参考文献
①日刊スポーツ,2018,「拓大主将は留学生デレセ オツオリさん快走から30年」
(https://www.google.co.jp/amp/s/www.nikkansports.com/m/sports/athletics/news/amp/201812310000220.html ,2019年2月9日閲覧)
②生島淳, 2015,『箱根駅伝 ナイン・ストーリーズ』文春文庫.