4限目:なぜ沿道に観客は集まるのか?〜箱根駅伝観戦者18万人の謎〜
1月2日、3日にかけて行われた第97回箱根駅伝は、駒澤大学の大逆転優勝で幕を閉じた。
2008年の第84回以来、13年ぶり7度目の総合優勝。10区アンカーの石川拓慎が、3分19秒先で首位を行く往路優勝校、創価大学を区間賞の走りで捉え、抜き去った。
そのレースの劇的な展開もさることながら、今回の箱根駅伝は別の観点からも注目を浴びている。
それは、沿道に集まる観戦者の数である。
もはや世間にその名を知らない人間はいないのではないかと思われるほど存在を認知された新型コロナウイルス(COVID-19)の影響で、今回の箱根駅伝は主催者の関東学生陸上競技連盟(以下、関東学連)から、沿道での観戦を自粛するよう要請が行われた。
(参考:関東学連公式HPの観戦自粛を要請する文書https://www.kgrr.org/event/2020/kgrr/97hakone/ouen%20negai.pdf)
自粛要請の対象は、大学関係者、OB・OGの他選手の家族にまで及んでいる。また、実際に前の区間を走った選手たちですらゴール地点には集まらず、TV越しに応援する様子が中継に映し出されていた。
そこまで現地観戦自粛を徹底していたにも関わらず、TV画面にはどう見ても関係者ではないと推察される人間が、山のように観戦する様子がはっきりと確認できた。
その数、主催者発表で約18万人。(※1)
これでも前年から約85%減少したそうだが、傍目から見ても「密」と思われる場所が何ヶ所もあり、感染拡大防止を徹底できているとはお世辞にも言い切れなかった。
では、数多くの観戦者が集まった原因は自粛要請の不行き届きなのだろうか。
それは考えづらいだろう。
箱根駅伝の観戦自粛要請は、共催の読売新聞社、特別後援の日本テレビ放送網などの一大バックアップのもと、広範に渡って行われていた。
新聞の一面広告や電車の中吊り広告では「応援したいから、応援にいかない。」のキャッチコピーが踊り、テレビ中継でも「沿道での観戦はお控えください」というテロップが度々表示され、実況が沿道での観戦を控えるよう再三呼びかけを行っていた。加えて現地でもスタッフがボードを携帯し、応援自粛を要請している。(※2)
これらの呼びかけを全てかいくぐって観戦した人間はごくわずかであろう。
つまり、18万人のうちほとんどの人間が、応援自粛を要請されているにも関わらず、それを無視して観戦を行っていたのだ。
この行動は一般的に見れば理解し難いものだ。
選手の家族ですら沿道での応援ができないにも関わらず、何も縁もゆかりもない人間が、コロナウイルスの拡大リスクを知りながら現地で応援しているのだ。
「身勝手」、「恥を知れ」と感情論で罵倒するのは簡単だが、それだけでは何も解決しないだろう。おそらく彼らは彼らなりのロジックを基に沿道に来ているのであって、それが罵倒することで翻るものではないことが容易に想像できるからだ。
このまま沿道から観戦者の人波が消えず、コロナウイルスも沈静化しないままでは、次回の箱根駅伝はおろか、駅伝という競技そのものの開催すら危ぶまれる。
そこで、「ここまで自粛が呼びかけられてるにも関わらず沿道に向かうロジック」を考えてみたい。
まず、コロナウイルスの感染リスクに対する楽観視があるのは大前提だろう。
「マスクをしていれば」、「ほんの少しの間なら」、「そもそも大した病気ではない」。理由付けは様々だろうが、コロナウイルスに関するリスクを低く見積もっていなければ、あのような行動を取るはずはない。
その上で、主催者から自粛を求められているにも関わらずそれを無視する理由を考えなければならないが、この特定は難しい。
校則を破る学生のような単なる反発心、ということも考えられるが、それだけで18万人が集まるとは思えない。
そこで考えたいのが、箱根駅伝におけるTV観戦と現地観戦の違いだ。
TV観戦と現地観戦に違いがなければ、散々呼びかけられている通り、家で大人しくTVで箱根駅伝を見ていればよい。
18万人の彼らがそうしない理由は、たとえ自粛要請を無視することになっても、TV観戦では得難い何かが現地観戦にはあるということなのだ。
その「何か」の正体については、以下のような候補が挙げられる。
①家族や友人とのお正月の恒例行事になっている
②実際に競技をしている選手たちを見たい
③単純にテレビに映って目立ちたい
④応援で盛り上がりたい
一見するとこれらは関連性がないようにも思えるが、「他者性」の獲得(=他者とのつながりの誕生)という共通項で纏めることができる。
①については、その行動自体に共同体のつながりの強化を期待することができる。
②については、実際に走り抜けたりする選手の身体に、自分にはない他者としての特性を見出すことができる。
③については、TVの向こう側にいるであろう他者との偶発的(かつ一方的な)つながりを期待することができる。
④については、他者と応援することでその共同作業の中につながりを見出すことができる。
以上のように、他者性の希求こそが、箱根駅伝に現地観戦に訪れる人々の原動力となっていると考えられるのだ。
では、それを踏まえた上で、箱根駅伝は現地観戦に訪れる人々にどのようにアプローチすればよいのか。
簡潔に言ってしまえば、他者性を求めに来ているのだから、多方面から他者との接触機会を減らすことだろう。
ただ、①についてはその共同体を解体することが解決策であり、現実的ではないので、その他の動機に対するアプローチを考えたい。
②については、解決策は選手と観客を物理的に接触不能にすることだ。バリケードの設置や侵入規制の強化等が考えられる。だが、公道を借りて開催している以上、思い切った規制は難しいし、片道100km以上のコースが対象となるため人手もコストも足りない。
極論としては陸上競技場やサーキット場へ開催地を変更し、入場規制を行うことも考えられるが、そうなった場合、その大会は「東京箱根間往復大学駅伝競走」が正式名称である箱根駅伝ではなく、ただの代替大会となってしまうだろう。
③については単純で、解決策はTVの中継を止めることである。
たが、口で言うのは簡単だが、実際に考えるとそれは現実的ではない。前述の通り、箱根駅伝を中継している日本テレビは箱根駅伝の大会自体の特別後援として名を連ねている。メディア・イベントである箱根駅伝を開催する以上、TV中継は漏れなくセットでついてくる状態だ。
仮に中継を止めることができたとしても、それはそれで箱根駅伝の存亡に関わる事態になると予測できる。三が日の東海道を占拠するイベントは、国民的行事としてTV中継されなければ開催許可など下りないからだ。
事実、1986年の日本テレビの箱根駅伝中継開始前には、あと1、2年でコース変更か中止を警察に迫られており、テレビ中継の影響によりその話が立ち消えになったという経緯がある。(※3)
TV中継がなくなれば、その議論が再燃することは自明だろう。
残った④についてだが、解決策は応援に来た観客を追い返したり、応援をやめるよう呼びかけることだ。
解決策としては一番地味で、劇的な効果は望めないが、結局のところ現実的な策はこれしかないのである。もちろん、トラブルが起こる可能性だってあるし、お願いベースでは聞く耳を持たれない可能性もある。
だが、粘り強く呼びかけ、新たな観戦スタイルを構築していくことしか、18万人を減らしていく方策はない。TV観戦が難しければ、密を避ける場所で観戦するよう呼びかけても良いのではないか。
これまで長々と書き連ねてきたが、駅伝を公道で開催している以上、どう策を弄そうとも沿道に来る人間は来てしまうのだ。
ただ、先の見えないコロナ禍の中で、絶えず沿道での観戦者、感染リスクを減らす取り組みをしなければ、駅伝という競技の存続に関わる問題になりかねない。
その意識を少しでも多くの人間が持つことを祈るばかりである。
注釈
※1-参考文献②
※2-参考文献③
※3-参考文献④
参考文献
①関東学生陸上競技連盟,2020,「応援に関するお願い」(https://www.kgrr.org/event/2020/kgrr/97hakone/ouen%20negai.pdf ,2021年1月4日閲覧).
②毎日新聞,2021,「箱根駅伝、自粛呼びかけも18万人沿道観戦 ネットで批判「異常な多さ」」(https://mainichi.jp/articles/20210103/k00/00m/050/106000c ,2021年1月4日閲覧).
③時事通信,2021,「正月の風物詩、雰囲気一変 「応援したいから、応援にいかない。」―箱根駅伝」(https://www.google.co.jp/amp/s/www.jiji.com/amp/article%3fk=2021010200197&g=spo ,2021 年1月4日閲覧.
④日刊スポーツ,2020,「「バカか」一蹴された中継が危機救う/箱根連載1」(https://t.co/Ex4kyo8bGH ,2021年1月4日閲覧).
3限目:「隔絶」の日本選手権10000m
スタンドが露出しきった競技場。
先頭を疾走するオープン参加の外国人選手。
世界陸上の参加標準記録からは遠く離れた優勝タイム。
これらは、昨日行われたばかりの日本選手権男子10000mのレース風景である。
あまりに虚無感に溢れた様子は、このブログを文字通り三日坊主で放り出していた私を奮い立たせるほどのショックと危機感を与えた。
なぜこんなことになってしまったのか。
この大会には、もっと良い大会となる道があったのではないか。
言いようのない歯痒さが込み上げるが、その答えを探すためにも、まずはこのレースの背景を整理したいと思う。
そもそも、今回のレースは来月に福岡で行われる予定の日本選手権とは分離開催となり、同日昼に行われた「セイコーゴールデングランプリ大阪」(以下セイコーGGP)終了後に行われた。
同大会は、同日に10秒01を記録した桐生祥秀ら男子100mの有力選手が多数出場し、TBS系列で全国にテレビ中継されるなど、活況を呈していた。
最終種目の男子4×100mリレーが日本チームの優勝に終わり、会場のヤンマースタジアム長居が祝福モードに包まれていたのは15時30分ごろ。
その4時間後、YouTubeのライブ配信に映し出されたのは、同じ会場とは思えないスタジアムの姿だった。
観客は、最前列近辺に数える程。割れんばかりだった歓声は、大音量のBGMに置き換わっていた。
驚くべき事実ではあるが、一般A席が3500円であったセイコーGGPに対し、このレースは入場無料なのだ。(※1)
繰り返すが、今年の日本における10000m競技の頂点を決めるレースが、観戦無料にも関わらず、スタンドはガラガラだったのだ。
それでも、レース内容が目覚ましいものであれば、まだ救いがあった。
男子の前に行われた女子のレースにおいては、鈴木亜由子、新谷仁美が積極的に先頭を引っ張り、最後に鮮やかなスパートを決めた鍋島莉奈が今年のドーハ世界陸上の参加標準記録(31分50秒00)を切る、31分44秒02で優勝を果たした。
個人的には、内容も白熱し、好タイムも出た良いレースだったと思う。
だが、男子のレースにおいては、その余韻すら冷めてしまった。
オープン参加の外国人選手が4名参加し、一定のペースで先頭を代わる代わる務める。
その後ろについていく日本人選手は次々に脱落し、最後に残っていた田村和希(住友電工)もついに7000m付近で外国人選手に振り落とされた。
最終的に、外国人選手3名が先着した後、田村が優勝者としてゴール。
優勝タイムは、世界陸上参加標準記録(27分40秒00)から30秒以上遅れた28分13秒39だった。
スタート時点で参加標準記録を破っている選手がいないこと、外国人選手が4名もオープン参加したこと、当初参加標準記録を狙えるペースでレースが推移したことからも、このレースが参加標準記録を狙うためのレースとして組み立てられていることは明らかだった。
それはさながら、普段から行われている記録会のような様相であったが、結果は普段から見せつけられている、世界との差を再確認させられただけだった。
いや、「日本選手権」という看板を立てながら、先頭を走る外国人選手たちを映し続けたライブ配信は、いつもよりも残酷に、グロテスクに、その差を教えてくれたかもしれない。
もちろん、このレースに真剣に臨み、全力を出し尽くした選手を非難するつもりは毛頭ない。(優勝した田村は、喜びの感情すら表現できないほど疲弊しきり、ゴール後しばらく動けずにした。)
だが、今回のレースを見て、「日本のトラック長距離種目に未来がある」と思うなら、それは些か楽観的過ぎるのではないか。
このレースに「本連盟(※日本陸連)強化委員会が特に推薦する本連盟登録競技者」として出場を申請し、参加を拒否されたマラソン日本記録保持者の大迫傑(ナイキ・オレゴン・プロジェクト)が、先月Twitter上で陸連の私物化批判を行った時が、このレースが一番注目を浴びた時ではなかったか。
とにかく、日本選手権男子10000mはあまりにも悲哀に満ちていた。
ここまでこのレースを整理して思うことは、やるせなさと同時に、なぜこんなにもこのレースが注目を浴びていないのか、ということである。
10000mという競技は、多くの人々の心を掴んでいる「駅伝」というコンテンツと、多分にリンクしている。
今回の日本選手権の出場選手も、優勝した田村(青山学院大卒)を始め、2位の坂東悠汰(法政大→富士通)、4位の相澤晃(東洋大)など箱根駅伝やその他多くの駅伝で名を馳せた選手が集っている。
つまり、競技の内容や選手個人の知名度で言えば、全く集客できない競技とは言い難いのだ。
加えて、ランニングが国民的な趣味としての地位を確立し、注目が競技としてのトラックレースに向く素地は充分に整っている。
しかし、今回の日本選手権には全くと言っていいほどそれらが反映されていない。
おそらく、長距離選手としては有数の知名度を誇る大迫がなんやかんやで参加していたとしても、窮状を僅かに改善する程度だったのではないだろうか。
今回のレース、そしてトラックレースそのものが一部の例外を除いて注目を浴びていない根本的な原因。
それは「隔絶」という言葉に凝縮されていると私は考える。
すなわち、競技としてのトラックレースは、駅伝やランニングと近いところにあるように見えて、一般の注目度という意味では繋がっていないのである。
よく、箱根駅伝中継の関連番組では「箱根から世界へ」という標語がクローズアップされる。
だが、その「箱根」と「世界」の中間に存在するはずの「日本選手権」は取り立てて登場することはない。
そして、セイコーGGPのように、近年の陸上の大会中継では男子100mや4×100mリレーに主な焦点が当てられ、長距離種目にカメラが向けられることは少ない。
(唯一の長距離種目であった3000m障害は、テレビ中継の時間外に行われていた。)
箱根の「物語」は、トラックレースに突入する前に一度途切れているのだ。
また、そもそも今回の日本選手権10000mが分離開催され、セイコーGGPの後に開催されるという事実が充分に周知されていなかったように思う。
日本陸連がサイトやTwitter上などで広報を行ってはいたが、CMが流れていたセイコーGGPのように一般に広報が浸透していたとはとても言い難い。
加えて、駆け引きが存在しない、外国人選手について記録を目指すレース展開も、日本の頂点を決める戦いという趣旨とは奇妙なズレが生じており、観客の方を向いてはいなかった。
あらゆる面で世間から隔絶され、ガラ空きの競技場でひっそりと行われたレース。
今回のレースは「日本選手権10000m」そのものが、一般から果てしなく離れた位置にあることを、これ以上ないほどに浮き彫りにしたのである。
箱根駅伝が過去最高視聴率を記録し、MGCによってマラソン界も賑わいを見せている長距離界。
その中でトラック種目は置き去りにされている感が強い。
もし、駅伝やマラソンの注目度が下がった時、現在の実業団のシステムは規模を維持できるのか。また、代替としてのプロ化への移行が成り立つのか。もしかしたら、今回のレースを再現することすら難しくなるのではないか。
そんな危機感を覚えずにはいられない。
だからこそ、断絶された環境からトラック種目を外部へと接続する必要がある。
セイコーGGPからの4時間、観客を繋ぎとめておくことはできなかったのか。
箱根から世界を目指す選手たちを、アピールすることで観客を呼び込む方法はなかったのか。
そして何より、競技の醍醐味、選手の一挙一動をもっと伝えることはできなかったのか。
競技力の底上げは、一朝一夕に果たされるものではない。
だが、競技としての魅力の醸成は、今からでも始められるのではないか。
日本国内で、駅伝だけでなく長距離種目全体が盛り上がりを見せることを願って止まない。
脚注
※1-参考文献①
参考文献
①チケットぴあ,「セイコーゴールデングランプリ陸上2019大阪」(https://t.pia.jp/pia/ticketInformation.do?eventCd=1912024&rlsCd=001 ,2019年5月20日閲覧).
②日刊スポーツ,2019,「マラソン大迫傑「私物化するのは」猛烈な陸連批判」(https://www.nikkansports.com/m/sports/athletics/news/201904230000366_m.html?mode=all ,2019年5月21日閲覧).
2限目:陸上長距離界のダイバーシティ
昨週末、陸上長距離関連の話題の中心になった選手たちには、異色の経歴を持つ人物が多かった。
まず、日本時間の9日(土)の早朝、ビッグニュースが飛び込んできた。
住友電工の遠藤日向が13分27秒81の5000m屋内日本新記録を達成したのである。
遠藤といえば、高校1年生で5000m13分台という日本初の偉業を達成したホープだ。
しかし、彼は箱根駅伝に出場するような名門大学でもなく、ニューイヤー駅伝で上位争いをするような実業団でもなく、当時新興実業団だった住友電工を進路として選んだ。
アメリカの名門チーム、バウマン・トラッククラブ(BTC)でも研鑽を積み、持ち味であるトラックでの走りに磨きをかけた結果、見事若干20歳での日本記録が生まれた。
10日(日)になっても、サプライズは止まらない。
八王子駅伝で優勝のゴールテープを切った中央大学の佐々木遼太は、なんと選手ではなく主務。
昨年選手から主務に転向したにも関わらず、トラック5000mの自己ベストを更新するなど進境著しい。
延岡西日本マラソンで男女アベック優勝を果たしたのは宏紀、沙央理の須河兄妹。
実業団での移籍を経験し、現在はサンベルクスに所属する兄の宏紀。一度は競技から離れたものの、会社員と実業団選手の両立を目指したオトバンク陸上部の立ち上げに参加した妹の沙央理。(※1)
ともに平坦な実業団選手生活ではなかった2人が、同じタイミングでマラソン初優勝を飾ったのである。
実業団ハーフでは、照井明人、山口修平が61分45秒、61分46秒で相次いでフィニッシュ。
2人は近年箱根駅伝初出場を果たした大学の出身者だ。(照井:東京国際大学、山口:創価大学)
チームの箱根初出場の際に出場した2人は、ともに大学関係者のハーフマラソン記録を塗り替えるという歴史も作り上げた。
極め付けは彼らを上回り、61分39秒で9位に入った京セラ鹿児島の中村高洋だろう。
35歳。名古屋大学大学院卒。フルタイム勤務。市民ランナー。
誤解を恐れずに言えば、陸上界の王道とは全く見当違いの道を駆け抜けた男が、日本記録まであと1分少々のところまで辿り着いたのだ。
常識を遥かに超えた偉業に、驚きの声は各所で聞こえた。
来月3日の東京マラソンにもエントリーされており、これ以上の衝撃が見られるかもしれない。
陸上競技に限らず、人間にとってどんな環境が正解なのかは千差万別である。
これまで正しいと考えられてきた道が、自分にも絶対に適合している保証はない。
選択肢が増えること、道が開かれていることの重要性は、彼らの経歴と結果が充分すぎるほど教えてくれたはずだ。
そして、もう一つ忘れてはならないことがある。
彼らは飛び込んだ手探り状態の環境の中、自らの手で創意工夫し、今回の快挙へと繋げたのだ。
その努力と精神力に、最大限の敬意を表したい。
注釈
※1-参考文献①
参考文献
①朽木誠一郎,2018「「その後」も人生は続いていくから 「文化系」企業が立ち上げた実業団」, BuzzFeed News
(https://www.buzzfeed.com/jp/seiichirokuchiki/athlete-sonogo ,2019年2月11日閲覧).
1限目:平成とYGUと箱根
今月7日、とある大学の陸上部の新体制が発表された。
大学の名は山梨学院大学。
箱根駅伝を見たことがある者ならば、その名を知らない者はまずいないだろう。
新たに駅伝監督に就任したのは飯島理彰。
山梨学院大学が箱根駅伝で、初の総合優勝を果たした際のメンバーだ。
そして、駅伝監督の座を退き、陸上部監督としてバックアップに回るのは、上田誠仁。
山梨学院大学駅伝チームの礎を一から作り上げ、出雲駅伝優勝6回、箱根駅伝優勝3回。各界で活躍する数多くの教え子を育て上げた稀代の名将である。
上田の監督としての歴史は、そのまま山梨学院大学駅伝チームの歴史と言える。
順天堂大学時代の恩師であり、これまた不世出の名将である澤木啓祐に推薦され、1985年に監督に就任した上田は、翌年の箱根駅伝予選会を見事に突破。
1987年の63回大会、記念すべき初出場を果たす。
この時は最下位に終わったものの、無名の地方大学の健闘は、ちょうどこの年から始まった日本テレビの箱根駅伝中継にも映し出されることとなった。
ちなみに、この大会で山梨学院大学の10区を務め、最終走者となった高橋真は、のちに『いいひと。』『最終兵器彼女』などのヒット作を生み出す漫画家となる。
その後も順調にチームの強化を進めた上田は、2年後の65回大会(1989年)で、革命的な選手起用を行う。
J.オツオリ、K.イセナの両外国人留学生の起用である。
特に2区を任されたオツオリは7人抜きで首位に立ち、ぶっちぎりの区間賞を獲得。
見る者に圧倒的なインパクトを与えると同時に、チームの初のシード権確保(総合7位)に大きく貢献した。
しかし、その衝撃の反動は大きかった。
チームには心無い批判の声が浴びせられることになる。
元号が平成に変わる、わずか5日前のことだった。
箱根駅伝とは、多分にナショナルな要素を含んだ競技である。
まず前提として、駅伝というスポーツ自体が、日本発祥の競技であり、ほぼ国内限定で盛り上がりを見せているスポーツだ。
そして、「学生たち」「絆」「チーム」といった清廉で集団主義的な表象。
お正月に東京から箱根へと向かい、帰ってくるというハレとケの往来を体現したかのような開催時間とコース。
それら全てが日本人の琴線に触れるからこそ、箱根駅伝はここまでの国民的イベントになったのだと私は考える。
しかし、翻って言えば、そこに外国人留学生が加わった時、ナショナリズムの負の側面が顔を出すことは、火を見るよりも明らかなのである。
事実、大学には「“害人”を使うな」といった、目を覆いたくなるような誹謗の手紙が届いた。(※1)
だが、彼らは負けなかった。
上田の言によれば、オツオリは偏見を抱いて見られるのも理解した上で日本に来ていたという。(※2)
その覚悟と走りは、強烈な逆風にも負けない推進力となり、チームをより強くしていった。
そして、1992年の68回大会。その時はやってくる。
1区の5位から、4年生になったオツオリとイセナが2区3区を走り首位に立つ。
1年次に8区区間最下位だったイセナは、3区で区間新記録をマークした。
その後チームは一度も首位を譲ることなく、アンカーの主将、野溝幸弘が悲願の初優勝のゴールテープを切った。
山梨学院大学が名実ともに、箱根駅伝を代表する大学となった瞬間である。
箱根初優勝を果たした年、大学には新たな留学生として、 S.マヤカが入学した。
現在の桜美林大学駅伝監督である、真也加ステファン、その人である。
マヤカは期待に違わぬ活躍で、一年生から2区で区間賞を獲得する。
しかし、大学は2年連続の総合優勝を逃した。
立ちはだかったのは、早稲田大学。
伝説のランナー、瀬古利彦がコーチを務め、高校時代から名の知れた選手が集った屈指のエリート集団であった。
「三羽烏」と呼ばれた櫛部静二、花田勝彦、武井隆次は、それぞれ1区、4区、7区で区間新記録をマーク。
2区では1年生の渡辺康幸が、マヤカに負けず劣らずの走りを見せ、首位の座を堅持した。
2校のライバル対決は凄まじかった。
1992年度〜1994年度、出雲は山梨学院、全日本は早稲田が取り、箱根で雌雄を決するという完全な2強時代が到来。
1994年の70回大会では、20チーム中16チームを復路一斉スタートにした。
わずか3年間で、区間記録を2校合わせて11回も出した。
中でも、マヤカと渡辺のエース対決は脚光を浴びた。71回大会(1995年)では先着したマヤカが12年ぶりに2区の区間記録を出せば、後から襷をを繋いだ渡辺がそのマヤカの記録を上回り、前人未到の1時間6分台をマークするなど、異次元の争いを繰り広げた。
このライバル対決は「エリートvs雑草」「日本人vs留学生」「都会vs地方」といった数々の対立構造を生み、多くの人を箱根駅伝に惹きつけた。
この頃、箱根駅伝中継の視聴率は急速な伸びを見せ、現在の水準にまで到達。
スポーツライターの生島淳は、この対決を『箱根の華』と表現している。(※3)
山梨学院大学はこの激戦を制し、見事70回大会〜71回大会で連覇を達成する。
快挙の裏には、マヤカ以外の選手たちの活躍がなくてはならなかった。
前述の飯島に加え、非公認ながらハーフマラソンで60分台を叩き出した井幡政等、在学中に世界陸上のマラソン代表となった中村祐二、現在MHPSマラソン部の監督を務める黒木純ら、数多くの選手たちが、留学生を追いかけ、学生界を代表するランナーになっていた。
特に、70回大会で10区を任された尾方剛は、その後2005年のヘルシンキ世界陸上でマラソンの銅メダルを獲得するまでに成長した。
山梨学院大学は、平成の箱根駅伝に大きな2つのインパクトを与えた。
①留学生が躍動する場が生まれた。
②早稲田大学との対決により、大会がよりメジャーな存在になった。
平成初期にこれらの出来事が起こらなければ、平成の箱根駅伝史はまた違ったものになっただろう。
そして、現在の箱根駅伝も、全く別の姿であったに違いない。
山梨学院大学は、71回大会の優勝後、箱根駅伝の総合優勝からは遠ざかる。
大会がメジャーな存在になったことで、宣伝効果を狙った大学がこぞって本格的な強化を開始。
群雄割拠の時代となり、箱根を制する厳しさはより増した。
さらに、平成後期にはいわゆるブランド校と呼ばれる大学までが、その知名度と資金力を生かし、スカウトや設備投資に本腰を入れ始める。
近年はシード権獲得も困難な状態となった。
それでも、「山梨学院」のユニフォームは平成の箱根路を駆け抜け続けた。
チームは監督の上田とともに33年連続で出場。
平成の箱根駅伝を皆勤したのは、日体大、駒澤大、早稲田大と山梨学院大の4校だけ。
既に新興校の枠を超え、箱根駅伝の伝統校となりつつある。
また、その中で幾多の名ランナー、個性派ランナーも生んできた。
箱根2区区間記録を持つ史上最強の留学生M.J.モグス、世界陸上や五輪のマラソン代表となった大崎悟史、今年まで箱根最古の区間記録(8区)を持っていた古田哲弘、2003年日本インカレ2冠の橋ノ口滝一、監督の息子であり、主将を務めた上田健太…。
特に、MHPSに進んだ井上大仁は昨年のアジア大会マラソンで金メダルを獲得し、2020年東京五輪のマラソン代表の有力候補に挙げられるなど、今も目覚ましい活躍を続けている。
また、井幡(愛三工業)、黒木 (MHPS)や、高見澤勝(佐久長聖高校)など、大学の出身者には近年勢いのあるチームの指揮をとる指導者も数多い。
そして、箱根を走る留学生の環境も、平成を通して確実に変わった。
今年の箱根駅伝では4校が留学生を起用。
D.ニャイロが欠場した山梨学院大学を除いても、この数字なのだから、もはや留学生の起用は箱根駅伝の「日常」となっている。
今年箱根を走った留学生の1人、拓殖大学のW.デレセは、初の留学生主将を務めた。
大会中の様子は、テレビ東京のバラエティ番組『YOUは何しに日本へ?』で今月11日に放映されるそうだ。
それら全てが、昭和の箱根駅伝では考えられなかったことである。
上田、オツオリ、イセナ、そして山梨学院大学が切り開いた道が、後続への大きな財産に変わっているのだ。
ここまで多くの影響を与えているからこそ、厳しい局面をなんとか乗り越えてほしいという思いが強くなる。
山梨学院大学は、今年の箱根駅伝で21位に沈んでしまったのだ。
これは、過去順位がついた中での最低順位である。
また、ニャイロ、永戸聖といった主力選手が卒業。
チームは初出場以来最大の出場危機にあるといっていいだろう。
そんな中で生まれた飯島駅伝監督による新体制。
来年度に向けてどんなチームを作ってくれるのだろうか。
来るべき次の元号でも、箱根の舞台でYGUのロゴが輝く時を強く望みたい。
注釈
※1-参考文献①
※2-参考文献①
※3-参考文献② 、160頁。
参考文献
①日刊スポーツ,2018,「拓大主将は留学生デレセ オツオリさん快走から30年」
(https://www.google.co.jp/amp/s/www.nikkansports.com/m/sports/athletics/news/amp/201812310000220.html ,2019年2月9日閲覧)
②生島淳, 2015,『箱根駅伝 ナイン・ストーリーズ』文春文庫.